十年。放浪記。Does the "experience" change a person?
東日本大震災から明日で丁度十年になる。
十年経ったからと言って自動的に何かが更新されるわけではない。
まだ復興は終わっていないし、心の傷や喪失感を抱え続けている人もいるだろう。
だから記念だとか節目だとか、そんな事は言いたくない。
十年という纏まりのように捉えるのは勝手な観念で、実際は一日一日、一瞬一瞬がただ続いていくだけである。
しかし十年前俺は何をしていたっけな、などと思い返すと浮かんでくる事も色々とあるので、記憶を整理する為にも当時の事やこの十年の事について書いてみる事とする。
東日本大震災が起こった頃の事
当時、俺は22歳だった。高卒で資格も知識も何も無い俺は関西の薄暗く埃臭い工場で最低賃金に近い賃金で製品の入った重たい箱を毎日ひたすら積み下ろしするだけの単純労働をしていた。
震災の翌日、職場の休憩所で若い同僚が、被災した地域の映像をニュースで見て「最高の景色だ。あんな風に愚かな人間どもが一掃されるのは見ていて気持ちがいい」などと言って笑っていた。
自分だって住んでいる場所が少し違えば被災していた可能性もあるし、いつか被災する可能性もある。それに、自分にとって大切な人やものが流されてしまったらその悲しみは計り知れないだろう。それなのに他人事だと思ってそんな事を言うのはどう考えてもおかしい。前々からおかしな奴だとは思っていたが、こいつはヤバい奴だなと改めて思った。
俺はそんなヤバい奴がいる職場で毎日の単純労働の繰り返しに飽き飽きしていたし、何か自分を変えなければいけないという焦燥感があり、一人で海外でバックパッカーのような事をすれば何か変わるんじゃないか、という浅はかな考えからバックパック一つで東南アジアに行って三週間くらい放浪する事にした。
金はそんなに持っていなかったので予算は15万円くらい。物価の安い東南アジアなら何とかなるだろうと思った。
当時の職場は結構自由な所で、「来週から三週間、有休を使って海外に行きます」と上司に言うと、「あぁ、そうなのねん、気をつけて行ってくるのねん」みたいな感じであっさり許諾された。単純労働なので代わりはいくらでもいるし、どうでも良かったのだろう。
初めての海外
タイは物価が安く、比較的治安も良いのでバックパッカー初心者にお勧めだと聞いていた。だから先ずはタイに行って、それから陸路でミャンマーやラオス、カンボジアにも行ってみようと大まかな予定だけ立てて宿や交通手段の予約などは何もせずに行った。
関西国際空港から飛行機に乗って、タイのバンコクに着いたのは夕方で、とりあえずその日の宿を探すので精いっぱいだった。予算は少ないので一泊二千円以下の宿を探して泊まる。一日目はバンコクのチャイナタウンの一泊1500円くらいの宿に泊まった。初めての異国の夜は非常に心細かった。しかしここまで来てしまえばなんとかなる、いや、なんとかするしかないと思った。
異国での日々は全てが新鮮だった。そういえば当時の俺は国内でも三週間放浪するという経験は無かった。初めての一人旅で海外というのは少しやりすぎた感は否めなかった。英語は苦手だし、タイ語も全くわからなかった。持参した「地球の歩き方」と英語とタイ語の旅行用のフレーズ集のような本には結構助けられた。
バイクタクシーやトゥクトゥクの運転手などは俺が日本人だと分かるとぼったくろうとしてくる事が多かったが、俺も少ない予算の貧乏旅行でぼったくられている場合ではなかったので必死に食い下がった。相場は大体「地球の歩き方」に載っていた。
ぼったくり価格でも日本の物価からすれば安かったりするし、見知らぬ異邦の観光客に親切にしてくれているのだから、多少はサービス料として多めにとられても仕方がないかなと思う事もあったが、ぎりぎりの妥協点に行きつくまでの鬩ぎ合いで随分消耗した。
最初の一週間くらいはバンコク周辺で寺院や遺跡を巡ったり、大きい市場に出掛けたり、食べ歩きをしたり、Nikonの安いコンデジで熱心に写真を撮って回ったりした。バンコクを離れるのが怖かったが、自分を変えるためにはもっと冒険しなければいけないと思った。
タイ最北端の街メーサイから日帰りならビザなしで国境を越えてミャンマーのタチレクという街に行けて、タチレクという街は国境の近くに広い市場がありタイから行き来する人も多く、両替しなくてもタイバーツがそのまま使える。という事が地球の歩き方に書いてあったので、夜行バスでタイ最北端の街メーサイまで行って、そこから歩いて国境を越えてみる事にした。
ミャンマーの短くて長い半日
バンコクから夜行バスに乗った。バンコクから離れれば離れるほど車窓から見える景色は暗くなり、不安になった。タイ最北端の街メーサイには翌日の早朝に着いた。
夜行バスの座席は狭いし座面は硬くて全然眠れなかったのでメーサイで宿を決めて少し仮眠をとってから昼前頃に国境へ向かう。宿からイミグレーションまでは徒歩で数分だった。
国境を越えてミャンマーへ来てみると、辺りは殺伐としていて道があまり舗装されていなくて砂埃がひどい。職にあぶれた若い男たちが道端で往来を睨んでいたり、駅弁売りのように立売りの箱を持って怪しい薬を売っている男もいる。いかにもスラムという感じだった。100バーツ(当時のレートで300円くらい)で泊まれる宿もあった。
国境を通れるのは夕方までで、夜行バスでの長旅で疲労も溜まっているし治安も悪そうだし、早くタイの宿に帰って休もうと思った。
しかしせっかくミャンマーに来たし、腹も減っているし、飯だけでも食べて帰ろうと思い、屋外に粗末なイスとテーブルを置いただけのような屋根の無い食堂でカオカームー(煮込豚足飯のようなもの)を食べた。
これを食べ終わったらタイに帰ろうと思っていたら、二十代半ばくらいの小柄で人の良さそうなミャンマー人の青年が声をかけてきた。
「日本人か?昨日の試合でホンダがゴール決めてたよな。俺は日本が好きなんだ。ちょっと話さないか?」
俺はサッカーが好きだったし一人で心細かったのでその青年と話す事にした。
ビールを奢ってくれたらバイクでこの周辺を案内してやる、"Long neck"も見せてやる、と言われたので一緒に食堂でミャンマービールを飲んだ。
青年はマイケルと名乗っていたが真偽はわからない。
小柄で、とにかく良い奴そうだった。以前にも日本人観光客を案内した事があるらしい。
酒が進むとマイケルは「"OKIYA"に行こう」と言ってきた。
"OKIYA"とは何なのかと尋ねると、金を払って遊女と遊ぶことができる施設の事だと説明された。(日本に帰ってから調べて知ったが、日本の「置屋」がその語源らしい)
本番一回500バーツ(当時のレートで1500円くらい)だという。いかにも危なそうだ。
俺は日本でもそういう店には行ったことが無かったし、「俺はそういう事をしに来たんじゃない、寺院や遺跡を巡ったりして自分を変えるために来たんだ」と言ったが、何故かマイケルの押しが強かった。
マイケルは「何事も"experience"だよ」と言った。
自分を変えるには確かに"experience"は必要なのかも知れない。そう言えば俺は日本では出来ない特別な"experience"を求めて異国の地に飛び込んだのだ。
そして俺は食堂を出て(出ると言っても元々外だが)マイケルのバイクの後ろに乗って、金色のデカい仏塔や少数民族の住む集落やマーケットを観た。首長族にも会った。首長族って本当にいるんだなと思った。
もしあの食堂でマイケルに出会わなければミャンマーで何もせずに帰るところだった。マイケルには感謝している。
その日、俺が"OKIYA"を"experience"したのかどうかは書かないでおく。
(て事はお前、行ったんだな?などと無粋な詮索はしないで頂きたいw)
バンコクに戻り、自分のヘタレを痛感する
メーサイからバスでチェンマイまで行き、チェンマイから寝台列車でバンコクに戻った。ラオスとカンボジアにも行く予定だったが、慣れない旅で心身ともに疲れていたのでやめた。
バンコクに戻ってから、バックパッカーに人気のカオサン通りの安宿にも泊まったが、宿の周囲に一晩中酒を飲んで騒いでいる奴らがいて、うるさくて眠れなかった。俺は元来、ひきこもり気質の人間で、バックパッカーには向いていないと思った。
その後は旅行代理店に行き、日本なら一泊一万円以上はしそうなバンコクの一等地のホテルが一泊二千円くらいで予約出来たのでそこに一週間ほど連泊。
それから帰国するまではずっとその快適なホテルを拠点にバンコク周辺を散歩したり、屋台街で食べ歩きをしたり、市場に行ったり、国鉄に乗ってアユタヤへ行って遺跡を観たりした。
夜は出歩かず、危なそうな場所には近寄らずホテルの窓から夜の街を眺めたり、テレビで何故かサッカーのイングランドプレミアリーグの試合を倍速で放送しているチャンネルがあったのでそれを観たり、本を読んだりしていた。
所謂「外こもり」のような感じが俺の性には合っていた。
それで、何か変わったのか?
予定していたカンボジアとラオスには行かなかったし、旅の後半は殆ど快適なホテルに籠っていたし、俺はやっぱり意思薄弱で、何をやってもあかんなあと痛感するばかりであった。
Nikonの安いコンデジで熱心に撮りためた写真などを帰国してから見たが、まあ似たような写真はネット上にいくらでも転がってるしな、と思い全部消した。
しかしまあ、初めての異国でもなんとかなったし、日本国内なら余裕だろう、という漠然とした自信はついたのかもしれない。
放浪の日々は続く
それから、国内でも結構放浪した。北海道に旅行に行って、気に入ったのでそのまま一年程、十勝や北見のあたりに住んだりもした。信濃や伊勢、近江辺りを転々としてみたりもした。旅先で知り合った女と暮らした事もあった。
仕事はと言うと、アパレル販売、自動車の組み立て、農業、半導体製造、工場の生産管理、Webデザイン、電子書籍の出版など、結構いろんな事をやった。
俺はそれらのどれも大事にしなかった。然程苦労して手に入れたものでも無かったので、その有り難みがわからなかったのかもしれない。
「十年」
何かを獲得してきたというよりは、捨ててきた十年だったと思う。何も残らなかったが、未練や後悔は無い。
ただ、勉強はもっと熱心にしておけば良かったと思う。いくつになっても遅過ぎるという事は無いが、なるべく若いうちにやっておいた方がこの社会では何かと有利だ。
これまでの十年は若さでなんとかなったが、これからの十年はそういうわけにはいかないだろう。
"ぼくは三十だった。前途には、新しい十年の不気味な歳月がおびやかすようにのびていた。"
(フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』野崎孝 訳)
「十年」と一つの大きな纏りのように捉えると何か意識してしまうものもあるが、そんなものは勝手な観念で、一日一日、一瞬一瞬がただ続いていくだけの事だ。
この先、どんな”experience”が俺をどんな風に変えていくのか、そもそも俺はあと何年、何日生きられるのだろう。明日の事も分からない。ただ闇の中を手探りで彷徨う日々である。
何処かに光明はあるのだろうか。
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