有明涅槃雑記

(ブログ)

流行と真価の差異、或いは君が食べているそのチョコレートがウォンバットのうんちである可能性について。

今週のお題「チョコレート」


何故そんなものが世間で流行っているのかわからない、と思う事は無いだろうか。
無いのなら、余程幸せな人なのでしょう。森へお帰りください。

俺は全くわからない事は無いにしても、そこまで流行る程のものなのか?と思う事がある。(特定の流行り物を批判する訳では無い)
カルチャーや価値観がこれほどまでに多様化した現代において、それでもある一つのものに極端に人気が集中する事があるのはどういった訳だろう。
それはより多くの人が「良い」と思ったから流行るのだろうが、大衆は本当にそれを良いと思っているのだろうか。
そもそも大衆は自分でその真価を見極める事が出来るのだろうか。

やっぱり流行っているから、或いは流行っているように見えるからそこに群がってるだけちゃうの?
大衆ってお祭り好きっすよね。

大衆は何故お祭りが好きなのか

長年の村社会の抑圧により、自分の意見を持っても叩かれたり仲間外れにされるだけなので、自主性を失ってしまった人は一定数いるだろう。
人は楽しい事が好きだが、そういう人たちは何を楽しんで良いのかわからない。
しかしお祭りは「楽しんでも良い」というお墨付きを与えられたイベントである。
だから日頃抑圧されていた人々はそこで羽目を外すのである。

人が羽目を外す裏には必ず抑圧がある。俺には抑圧されるものの苦しみがよくわかる。だから俺は何かやらかしてしまった人を笑ったり出来ない。その裏にあった抑圧の日々を想像して憐憫の情を抱く事が多い。

評論家がいるわけ

優れた評論家はあるものの隠れた良さや人が気づかない楽しみ方を教えてくれる。
しかし大衆が評論家を必要とするのはもっと消極的な理由からである。

自主性を失ってしまった人は何を「良い」と思っていいかもわからない。
だから「見る目がある」人の「良いと思って良い」というお墨付きがあると助かるのである。
最近流行りのインフルエンサーも要は評論家兼広告塔みたいなもので、自主性を失ってしまった人や真価を見極めるのが面倒くさいという人が多数いるからそういうビジネスが成り立っているのだろう。

流行っているものはより流行る

自主性を失ってしまった人は何を「良い」と思っていいかもわからない。
そういう人々が価値判断の基準にするのは評論家やインフルエンサーの意見だけでなく、「流行っているかどうか」という事も挙げられる。
流行っていると言う事が価値の保証になるのである。
だからプロモーションに尽力して流行っているように見せれば大衆はそれに群がってくるのである。

冠婚葬祭は普段着で行け

くだらない因習やマナーなどが無くならないのも自主性を失ってしまった人が多数いるからである。

靴下の色がどうとかスーツの黒の濃さがどうとか、それはスーツ屋が金を儲けるためである。
堂々と胸を張って、NirvanaのTシャツで葬式に行け。
何か言われたら言い返せるように徹底的に理論武装して行け。
でなければ俺たちは変われない。いつまでも憐れな家畜のままだ。
木魚のビートに合わせて大きな屁をこいてやれ。

バレンタインデーは意中の人に告白するきっかけが欲しい人にとって格好のイベントなのである

自主性を失ってしまった人は行動するのに何かきっかけが欲しいのだ。

「バレンタインには意中の人にチョコをあげても良いですよ」

「節分には恵方巻きを食べて良いですよ」

「神を信じたら幸せになれますよ」

それをビジネスチャンスと捉えた人がいて、その戦略が上手くいって定着し、年中行事となったのである。

Is this chocolate?

君が食べているそのチョコレートは、本当にチョコレートだろうか。
みんなが食べているからそれはウォンバットのうんちでは無い、と本当に言えるのか。
俺たちはこれから何を信じて生きていくべきなのか、今一度問い直す時なのでは無いだろうか。