湾処の苔、焦土の水溜

忘れられた電脳世界の僻地にあって、時々珍奇な流民が迷い込む。そんな俺の墓。(何も無いけど、ゆっくりしていってね)

姫子の死

昨日、象の姫子が死んだらしい。先程、ニュースで知った。

43歳で、人間に換算すると60歳くらいだったそうだ。

俺は昨年の十二月にその姫子がいた姫路市立動物園に行った。

色々と写真を撮ったが姫子の写真は撮っていない。

大きな身体で狭い空間に閉じ込められているのを観るのが不憫だと思ったのと、十年程前に同動物園を訪れた際に、恐らく仕込まれた芸の一種なのだと思うが、その象が前に後ろにステップ(といえるほど軽快なものではなかったが)を踏むダンスのような動作をロボットのように延々と繰り返しているのを観て、当時二十歳そこそこで少し捻くれていた俺は、単調でつまらないし、少し不気味だとさえ思った、その印象が残っていたので、その象をほとんど見ずに通り過ぎた為である。

しかし、それは俺の勝手な空想で、姫子は飼育員や見物客に愛されて案外幸せだったのかもしれない。

その本当のところは俺にはわからない。

ただ、死んでしまったと知ると、あの時もう少しゆっくり観察しておけばよかったと思わない事もない。

生きている間は何とも思わなかったのに、その人が亡くなってから、その人に親しみを覚えたり、愛おしく思える事がある。それはどうしてだろうか。

最近、若くして自死した音楽家の遺した楽曲を聴き漁ったり、その人と生前親交があった人達がSNSなどでその故人についてコメントしているのを見漁ったりして、哀しい気分に浸ったり、自分なら何と言うか考えたり、どうして自死に至ったのか解釈しようとしてみたりしている。

酷いスランプに陥っていたのかも知れないし、才能の枯渇を恐れ行末を案じ極度に悲観的になっていたのかも知れないし、人間関係について何か誰にも言えないような深刻な悩みがあったのかもしれない。

俺があれこれと推考しても本当の事は当人にしかわからない。

死んだ者は沈黙している。沈黙の中には様々な謎、即ち、解釈の余地がある。

姫子の、あの延々と繰り返していた一見単調なダンスも、見物客を楽しませたいという献身の表れだったのかもしれないし、毎日同じような繰り返しの日々でも、信じて続けていれば希望や喜びを見出せる事はある、だから投げ出さずに今自分に出来る事を精一杯やるしか無いのだ、という隠れたメッセージを受け取る事も出来たのかもしれない。

(或いは既に深層意識の中にそのようなメッセージを知らずに受け取っていたのかも知れない)